ウシ

私の父は、農林水産省管轄の畜産試験場で働く、牛の牧草の研究者でした
私は幼い頃、父の研究についていき、牧草地に生えている牧草の種類を調べる手伝いをしたり、


牛が冬に食べる藁が天井まで詰まった倉庫に行き、高いところからジャンプして藁に飛び込んで遊んだりしてました。

まだ幼い私たち兄弟は、たくさんいる巨大な牛たちに恐れることなく牧草地に走りこみ、母を心配させました。


私たちは自分たちよりはるかに大きい牛に囲まれ、牛たちに草をあげていました。
子牛が生まれるときは父は夜も帰って来ず、生まれると連れて行って見せてくれました。

父が牧草地に行き「バー、バー!」と声をかけると、遠くにいた牛たちは父のところに駆け寄って、集まってきました。
私も真似してやってみますが、牛たちはこちらは向くのですが来てはくれませんでした。

畜産試験場は広大で、広い放牧地がいくつもあり、試験棟や牧草保管倉庫が散らばり、試験場で働く人々とその家族が住む、一軒家やアパートの官舎、そして小さい商店までその中にありました。
その商店でハイジに出てくるような金属の入れ物に入った牛乳を、ガラスの瓶に入れてもらって買ってくるのは私の役割でいた。
パック詰めの牛乳とは全然違うおいしい牛乳でした。

今思えば、あの時出会った牛たちは、工場畜産よりははるかにましな環境ではありましたが、
母牛たちは、牛乳や研究のために、子牛を奪われ、
そしていずれ、全員殺され、遺体を食べられていたとわかります。

しかし当時は、あの牛たちと、食卓に上る牛肉が同じものだとは知って(know)はいますが、知り(see)ませんでした。

研究者は、牛と牧草の関係を継続的に研究するため、自分が管理するそれぞれの牧草地と群れを持っていました。
私たちは父が管理する牧草地に連れて行ってもらっていました。

研究者は、自分が管理する牛を屠殺する場合、その牛の肉を持ち帰ってきて食べるのが通例だったようです。
しかし、父は自分が管理していた牛が殺された時、その肉を持って帰ってくることはありませんでした。
今でも多くを語ってくれませんが、自分の牛が殺される時は屠殺に立ち会うようで、その日はずっと暗かったと母は言います。

父は昔も今もノンヴィーガンですが、心が通った牛は食べられなかったようです。

私が子供の頃、牛は常に身近にいました。
ですので今でも、牛がいると見てしまいますし、触れるところだったら触りにいきます。
巨大な体でありながら気弱、好奇心いっぱいな大きい美しい目、柔らかい毛、暖かい体、すべてが好きです。

私は、牛たちの犠牲の上に、育ち、学び、生きてきた人間です。
今思えば、何も気づかず、気づこうとせず、牛たちに可哀想なことを、ひどいことをしてきました。

私はこれから牛たちのために働きます。
私のために犠牲になった牛たちは帰ってきませんが、今、彼らの子孫が犠牲になっています。
私は彼らを助けたい。

私が牛のために働く理由です。

動物解放団体リブ
目黒峰人

ニュース